11/12(木)ほんとうの憲法を学ぶ勉強会(第2回)のご案内
ほんとうの憲法を学ぶ勉強会(第2回)のご案内
安達法律事務所 弁護士 安達悠司
これまでの法律的常識を取り払い、わが国の2000年以上にわたる歴史をふまえ、憲法とはいったい何なのかを一から考える勉強会です。憲法は、我が国の基本法であり、本来はこれを学ぶことにより、国を尊び、祖先を敬い、国民の生活を安らかで豊かにするものであるべきです。この勉強会は、憲法を学ぶことにより、心を養い、視野を広げ、叡智を身に付け、各々の人生を豊かにすることを理想として行います。
新進気鋭の政治家・学者・経営者必見です。一般の方や学生、初心者の方も大歓迎です。テーマは大きいですが、法律の常識にとらわれない、いつでも質問可、途中入退室自由、少人数のアットホームな場にしようと思います(zoomによる視聴も可能です)
■日時■ 令和2年11月12日(木)午後6時30分~午後8時30分
■場所■ 安達法律事務所 京都市中京区東洞院通竹屋町下る三本木五丁目470番地
竹屋町法曹ビル2階(TEL 075-221-5575)
地下鉄烏丸線丸太町駅 徒歩3分 駐車場なし
■費用■ 1000円(税込) zoom視聴の場合は事前の振込をお願いします。
■定員■ 10名程度(予約順)+ zoom視聴の参加者
■内容■ ほんとうの憲法に関する勉強会 ②憲法の基本原理
弁護士安達悠司の解説により、憲法の基本原理について学びます。第1回は、「憲法と天皇」をテーマに、天皇の存在に基づいて日本思想に基づく憲法の創造的解釈が可能なことをお話ししました。今回は、憲法の基本原理がテーマです。これまで国民主権、人権の尊重、平和主義が三大原理とされてきました。しかし、我が国の法に連続性を認めるとき、わが国の憲法に2000年以上生き続けている基本原理は全く別のものではないかと考えられます。きみ(君)とみ(臣)たみ(民)の関係もその一つです。他には、、、解説90分、質疑応答+意見交換
■申込■ 電話・メール(adachi@adachi-kyoto.com)にてご連絡ください。残席あれば当日参加も可能です。
☆zoom参加の場合☆ 必ず前日までにメールにてご連絡ください。振込先をご連絡しますので、お振込後に配信方法をメールでご連絡します。
≪次回以降の日程(予定)≫
11月18日(水)午後6時30分~午後8時30分 ③十七条憲法
12月 2日(水)午後6時30分~午後8時30分 ④憲法と国防
12月10日(木)午後6時30分~午後8時30分 ⑤これからの憲法とは
(各回は別個の内容であり、単発での参加も可能です。)
11/26(木)弁護士・社労士による勉強会のご案内
11月26日に社会保険労務士さんと勉強会を行います!
テーマは武士道と経営! 以下案内です。
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日本を元気にする!経営者のための
弁護士・社労士による勉強会のご案内
~武士道を経営に生かす~
弁護士と社会保険労務士による勉強会第5弾です。今回のテーマは「武士道」です。伊邪那岐・伊邪那美二神の「天の沼矛」や須佐之男命の「草薙剣」にも象徴されるように、我が国では太古から「武」は国づくりと共にあり、その道が究められ、日本固有の精神文化を形成してきました。この思想は、経営者にとって学ぶべき日本の叡智の大切な一つです。経営者の方、会社役員の方、会社員の方、団体・法人の方、士業の方、学生の方、初めての方でも大歓迎です。今回も、3密対策を施した上での開催となります。
◆日時◆ 令和2年11月26日(木)午後6時30分~午後8時30分
◆場所◆ ウイングス京都 2階 会議室1
〒604-8147 京都市中京区東洞院通六角下る御射山町262 番地
◆内容◆ 武士道を経営に生かす!
1 弁護士・社労士からの発表(90分)
- 「宮本武蔵『五輪書』を読み、経営に生かす」(納谷朋美社会保険労務士(剣道四段))
- 「日本最古の兵法書『闘戦経』に基づく経営戦略」(安達悠司弁護士)
2 参加者からの質疑応答(20分)
◆会費◆ 2000円(会場にて)
◆定員◆ 20名(先着順)
◆申込方法◆
※当日参加も可能ですが、できる限りお早めに申込みをお願いします。
事前にお申込みされる方は、安達法律事務所までご連絡下さい(電話075-221-5575、メールadachi@adachi-kyoto.com)。
十七条の憲法⑨
◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている⑨?
信(まこと)は是(こ)れ義(ことわり)の本(もと)なり。事(こと)毎(ごと)に信(まこと)有(あ)れ。其(そ)れ善悪(よしあし)成敗(なりならず)、要(かなら)ず信(まこと)に在(あ)り。群臣(まちきみたち)共(とも)に信(まこと)あるときは、何事(なにごと)か成(な)らざらん。群臣(まちきみたち)信(まこと)なければ、萬事(よろづのこと)悉(ことごと)に敗(やぶ)る。 |
第9条のテーマは「まこと」です。
「信」と書いて「まこと」と読みます。信じるの「信」という字が充てられていますが、例によって訓読みをしますので、「まこと」について書かれているのです。
「誠」「真」「真事」「真言」などの字もすべて「まこと」と読みます。まことは、うそいつわりのないこと、ありのままであること、本当のことを言います。
「義」は「ことはり」または「ことわり」と読みます。「ことわり」はそのとおりであるさま、もっともであること、道理にかなっていることを言います。「断り」「理」も「ことわり」と読みます。
「まこと」は、ありのままであることを言い、それが道理にかなっている「ことわり」となります。
わが国の場合、まことであることは非常に重要視されてきたと考えられます。現在も、日本の法令には、「信義誠実の原則」という規定があります。「信義に従い、誠実にこれを行う」(民法1条2項)、「裁判所は、民事訴訟が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を追行しなければならない。」(民事訴訟法2条)、「裁判所は、家事事件の手続が公正かつ迅速に行われるように努め、当事者は、信義に従い誠実に家事事件の手続を追行しなければならない。」(家事事件手続法2条)などと、民事や家事事件の重要な原則とされ、最高裁判所も行政法はじめ様々な事案でも信義誠実の原則、信義則を適用しています。信義誠実の原則は権利の行使や義務の履行のみならず契約解釈の基準にもなるともされています(最判昭和32年7月5日民集11巻7号1193頁)。
法律家としてみても、信義誠実の原則は、裁判において意外とよく使われるものです。法律に書かれてはいないが、非常におかしな行動や、不合理なふるまい、前後矛盾する主張などがなされているときに、信義則に反するような行為は許されないと指摘します。そして裁判所も信義則を比較的良く認める傾向にあります。
その信義誠実の原則に使われる、信(まこと)も義(ことわり)もともに十七条の憲法に書かれていることがたいへん興味深く思います。
つまり、裁判の上で、まことであること、道理にかなっていることを、昔も今も、重視してきたのがこの国の思想と言えるのではないでしょうか。
特に、第一文は、まことであることが、もっともなことであり、それがそのまま道理のもとになる、という意味に解釈されます。
儒教では「仁義礼智信」の順に「五常」としておりますが、聖徳太子は、冠位十二階を定めるにあたって、その順位を入れ替え、「徳・仁・礼・信・義・智」としており、「信」を「義」よりも先においています。これらは冠位の名前ですが、あえて訓読みで読むと、「うつくしび」、「めぐみ」、「うやまひ」、「まこと」、「ことわり」、「さとし」となりますので、日本でどのようなものが重要視されてきたかがうかがえるように思います。
要するに、中国では「義」が先の方に来ていますが、日本では「礼」や「信」が義よりも先にあるのです。第4条には「うやまひ」が説かれ、第9条の「まこと」が「ことわり」の本であるとされているのです。こうした発想も、日本ならではの価値観であると考えられます。
つまり、民をいつくしみ、めぐむのが最重要であり、その次にうやまひがあり、そしてまことであることが重視され、そうしたまことが「ことわり」を生み、「さとし」つまり智慧を生むという発想なのです。
このように、民をいつくしみ、めぐむことを重視することや、相手を上に見ること、ありのままであることを重視するのも、言われてみれば当然のこととして、理解することができるのではないでしょうか。
正直であること、嘘をつかないこと、素直であることが美徳とされるのも、日本人の顕著な特徴のように思います。逆に言えば、外国の発想は必ずしもそうではない、ということです。ですから、
十七条の憲法⑧
◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている⑧?
八(やつ)に曰く(いは)、群卿百寮(まちきみたちつかさつかさ)、早(はや)く朝(まゐ)り晏(おそ)く退(まか)でよ。公事(おおやけ)鹽靡(いとまな)し、終日(ひめもす)にも尽(つく)し難(がた)し。是(これ)を以(もつ)て遅(おそ)く朝(まゐ)れば、急(すみやか)なるに逮(およ)ばず、早(はや)く退(まか)れば、必(かなら)ず事(こと)尽(つ)きず。 |
第八条は、「勤務時間」がテーマです。
「群卿百寮」は前にもありましたが、「まちきみたちつかさつかさ」つまり、高官から下位の全ての役人に至るまでという意味です。
「朝り」は、「まゐり」と読み、「晏く」は「おそく」、「退でよ」は「まかでよ」、つまり早く参り遅く帰れということを言っています。朝早くから出勤し、遅くに退庁すべしということであり、言わんとするところは明快です。
日本書紀では、舒明天皇8年に、大派王(おほまたのみこ)が豊浦大臣(とよらのおおおみ)に対し、「朝(みかど)参(まゐ)りすること已(すで)に懈(おこ)たれり、群卿(まちきみたち)及び百寮(もものつかさ)、卯の始に参り、巳の後にこれを退れ、因りて鐘を以て節(ととのへ)と為よ」と述べたが、大臣はこれに従わずと書かれています。舒明天皇は聖徳太子が十七条の憲法を制定したときの推古天皇の御代の次の天皇です。十七条の憲法がつくられましたが、その次の天皇の御代には、朝廷に参るのを既に怠っている状況が見られたということです。したがって、卯の始め(午前五時)に参り、巳の後(午前十一時)に退れという具体的な時刻が示され、これを鐘で知らせるように指示されました。しかし、豊浦大臣(蘇我蝦夷)はこれに従わなかったと書かれています。
聖徳太子が十七条憲法を制定したのは推古天皇12年(西暦604年)であり、聖徳太子は推古天皇30年、18年後に亡くなっています。そして、舒明天皇8年(西暦636年)は、実に十七条憲法制定から約32年後です。そのように考えると、全ての役人に実行させるのはいかに困難なことであるかが分かります。
ともかく、当時は、役所で仕事をする時間帯は朝であり、聖徳太子が述べた、早く参り遅く退でよ、という趣旨も、このような早朝の出勤と昼前の退庁を前提としていたと考えられます。
「公事」は、「おおやけ」と読み、「鹽靡し」と書いて「いとまなし」と読みます。おおやけのことは、間隔がないくらいびっちり詰まっているということです。つまり、それだけ仕事の量が多いということです。
第6条の「うたえ」の中でもありましたが、「百姓(おほみたから)の訟(うたえ)は一日(ひとひ)に千事(ちわざ)あり」とされていました。それだけ公務の量も多く、多忙だった姿がうかがえます。
「終日」は「ひめもす」あるいは「ひねもす」と読み、もとは太陽が昇っている間中という意味ですが、転じて一日中という意味です。
したがって、遅く参ると、「急なるに逮ばず」。「逮ばず」は「およばず」と読み、速やかな案件が出てきたときに対応することができないということになります。早く退庁すれば、必ず仕事が終わらないということです。
この条の訳を以下にまとめます。
「第八条 すべての役人は朝早く出勤し(朝)遅くに退庁しましょう。公のことは休む間もなく、一日中働いても終えることができません。したがって遅くに出勤すれば、急な事案に対応することができず、早く退庁すれば必ず仕事が終わりません。」
以上
十七条の憲法⑦
◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている⑦?
七(ななつ)に曰(いは)く、人(ひと)各(おのおの)任(よさし)有(あ)り、掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。其(そ)れ賢哲(さかしきひと)官(つかさ)に任(よさ)すときは、頌音(ほむるこゑ)則(すなは)ち起(おこ)り、姧者(かたましきひと)官(つかさ)を有(たも)つときは、禍(わざはひ)乱(みだれ)則(すなは)ち繁(しげ)し。世(よ)に生(う)まれながら知(し)ること少(すく)なけれども、剋(よ)く念(おも)ひて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少(おほひなりいささけき)となく、人(ひと)を得(え)て必(かなら)ず治(おさ)まる。時(とき)急緩(ときおそき)となく、賢(さかしきひと)に遇(あ)ひて自(おのづか)ら寛(ゆたか)なり。此(これ)に因(よ)りて国家(あめのした)永(なが)く久(ひさ)しくして、社稷(くに)危(あやう)きこと勿(な)し。故(か)れ古(いにしへ)の聖(ひじりの)王(きみ)、官(つかさ)の為(た)めに以(もつ)て人(ひと)を求(もと)む、人(ひと)の為(た)めに官(つかさ)を求(もと)めたまはず。 |
第七条は、「任官」がテーマです。
第一条から振り返ってみると、第一条は「やはらぎ」、第二条は「仏教」、第三条は「つつしみ」、第四条は「うやまひ」、第五条は「うたえ」、第六条は「善悪」でした。
第一条は、上司がなごやかな空気を作り出すことで心を一つにすることを説き、第二条は心を平穏にするための教えとして仏教を説き、また第三条では天皇陛下のお言葉を受けたときに我が身を振り返ってよく考えることを説いています。そして、第四条では具体的な行動として、相手を上に見る行動をすることで互いに尊重しあう世の中にし、第五条では訴えを公平に審理することで民の拠り所をつくり、第六条では人の良い行動をたたえ、悪い行動を戒めるという行動実線を説きました。
十七条の憲法は、既に述べたように冠位を持つ者への教え、行動哲学として述べられたものであり、非常に実践的な内容です。同時に、国をいかにして治めるか、いかにして民を豊かに安らかにするかという思いが根本にあります。そして、我が国古来の思想や法律、教えをベースにしながら、仏教の考え方や中国の思想・表現を取り入れていることが分かります。
そして、よく読めば、印度と中国の思想を単に取り入れたものではなく、あくまで日本の古来の思想や教えに基づきながら、印度や中国にはない、新たな教えを作り出しているのが本当のところだと感じられます。その例が、第一条の「やわらぎ」や第三条の「つつしみ」であり、また、第四条の「うやまひ」を庶民にまで広げるなど、我が国固有の思想や発想だと分かります。また、第六条や第十六条では、「古の良き典(のり)なり」として我が国の古くからの法律・しきたりを指摘しています。
第七条でも最後に、「古の聖王は」とありますが、これは「いにしえのひじりのきみ」と読み、我が国のおおきみのことを指します。たとえば、日本書紀には、第11代の垂仁天皇の御代、朝鮮半島にあった加羅国の王子が「日本国(やまとのくに)に聖皇(ひじりのきみ)有すと聞りて帰化す」と書かれています。「王」も「皇」も「きみ」と読みます。加羅国の王子が、日本に「ひじりのきみ」がいらっしゃると承って帰化したのです。ほかにも新羅国王の子が「日本国(やまとのくに)に聖皇(ひじりのきみ)有すと聞り」と来日したことが書かれてあります。
したがって、第七条も、日本古来の教えをもとに、任官の考え方を説いているのです。
まず「任」は「よさし」と読みます。任せることを「よさす」と言いました。「よさす」は「寄さす」意味と考えられます。祝詞に詳しい方がいらっしゃれば、神社の大祓詞でも、二神が皇孫に対し、日本を治めることを「ことよさしまつる」(お任せになった)という下りがあります。
人各任有りとは、人はそれぞれ任せられた務めがあるという意味です。
「濫れざるべし」は濫り(みだり)に行ってはならないという意味であり、任務を適切に行わなければならないということです。
第七条の最後に、「官のために人を求め、人のために官を求めず」とありますが、本条の趣旨はまさにこのとおりで、任務を適切に行うことができる人を求めなければならないということです。
「賢哲」は「さかしきひと」つまり優秀な人という意味です。「頌音」は「ほむるこゑ」つまり優秀な人を任官させると褒め称える声が聞こえるということです。
第2文までを訳します。
人にはそれぞれ任された務めがあり、その務めを適切に行わなければなりません。賢い人を任官させると、褒め称える声が起こり、悪い人が官にあり続けると災いや乱れが多くなります。
また、世に生まれながら知る人は少ないけれども、よく考え学んで「ひじり」となる。「聖」は「ひじり」と読みますが、「ひじり」は「日+知り」からきていると思われ、日に日に知ることで、ひじり(聖)となるわけです。「大少」は「おほいなりいささけき」と読みますが、大きいこともわずかなこともという意味です。
「急緩」は「ときおそき」と読みますが、緊急のときでもという意味で、「寛」は「ゆたか」と読み、ゆるやかという意味です。「社稷」は音読みすると「しゃしょく」ですが「くに」(国)のことです。
第6文までを訳します。
世に生まれながら知ることは少ないけれども、日に日によく考え学ぶことで立派な人、ひじりとなります。重大なことでも些細なことでも、よい人がいれば必ずうまくゆきます。急を要することでも、賢い人がいると自然と落ち着いて対処することができます。こうすれば、国は長きにわたって危ういことがありません。
「古の聖王」は、前段でも述べましたが、「いにしへのひじりのきみ」と読み、我が国の昔の優れた大王(おおきみ)・天皇(すめらみこと)のことです。
最後の文を訳します。
よって我が国昔の優れた大王(おおきみ)は、官職のために人を求め、人のために官職を求めませんでした。
まとめると、次のようになります。
「第七条 人にはそれぞれ任された務めがあり、その務めを適切に行わなければなりません。賢い人を任官させると、褒め称える声が起こり、悪い人が官にあり続けると災いや乱れが多くなります。世に生まれながら知ることは少ないけれども、日に日によく考え学ぶことで立派な人、ひじりとなります。重大なことでも些細なことでも、よい人がいれば必ずうまくゆきます。急を要することでも、賢い人がいると自然と落ち着いて対処することができます。こうすれば、国は長きにわたって危ういことがありません。よって我が国昔の優れた大王(おおきみ)は、官職のために人を求め、人のために官職を求めませんでした。」
結局、第七条では、任官の際には、その務めを行うのにふさわしい優れた人を求めるよう説いています。これは、当たり前と言えば当たり前のことですが、官職にある者の血縁や地縁ということでの任官、つまり縁故採用が多くなった結果、その任に堪えない者がでてくる弊害が起きていたためと考えるのが自然です。
人は第一の宝です。どんな優れた制度やどんな役職をつくっても、それを動かすのは結局人ですから、よい人が就けばうまくゆきますし、その任に堪えない人が就けばうまくゆきません。聖徳太子はまさにこのことを言っています。
以上