十七条の憲法⑧
◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている⑧?
八(やつ)に曰く(いは)、群卿百寮(まちきみたちつかさつかさ)、早(はや)く朝(まゐ)り晏(おそ)く退(まか)でよ。公事(おおやけ)鹽靡(いとまな)し、終日(ひめもす)にも尽(つく)し難(がた)し。是(これ)を以(もつ)て遅(おそ)く朝(まゐ)れば、急(すみやか)なるに逮(およ)ばず、早(はや)く退(まか)れば、必(かなら)ず事(こと)尽(つ)きず。 |
第八条は、「勤務時間」がテーマです。
「群卿百寮」は前にもありましたが、「まちきみたちつかさつかさ」つまり、高官から下位の全ての役人に至るまでという意味です。
「朝り」は、「まゐり」と読み、「晏く」は「おそく」、「退でよ」は「まかでよ」、つまり早く参り遅く帰れということを言っています。朝早くから出勤し、遅くに退庁すべしということであり、言わんとするところは明快です。
日本書紀では、舒明天皇8年に、大派王(おほまたのみこ)が豊浦大臣(とよらのおおおみ)に対し、「朝(みかど)参(まゐ)りすること已(すで)に懈(おこ)たれり、群卿(まちきみたち)及び百寮(もものつかさ)、卯の始に参り、巳の後にこれを退れ、因りて鐘を以て節(ととのへ)と為よ」と述べたが、大臣はこれに従わずと書かれています。舒明天皇は聖徳太子が十七条の憲法を制定したときの推古天皇の御代の次の天皇です。十七条の憲法がつくられましたが、その次の天皇の御代には、朝廷に参るのを既に怠っている状況が見られたということです。したがって、卯の始め(午前五時)に参り、巳の後(午前十一時)に退れという具体的な時刻が示され、これを鐘で知らせるように指示されました。しかし、豊浦大臣(蘇我蝦夷)はこれに従わなかったと書かれています。
聖徳太子が十七条憲法を制定したのは推古天皇12年(西暦604年)であり、聖徳太子は推古天皇30年、18年後に亡くなっています。そして、舒明天皇8年(西暦636年)は、実に十七条憲法制定から約32年後です。そのように考えると、全ての役人に実行させるのはいかに困難なことであるかが分かります。
ともかく、当時は、役所で仕事をする時間帯は朝であり、聖徳太子が述べた、早く参り遅く退でよ、という趣旨も、このような早朝の出勤と昼前の退庁を前提としていたと考えられます。
「公事」は、「おおやけ」と読み、「鹽靡し」と書いて「いとまなし」と読みます。おおやけのことは、間隔がないくらいびっちり詰まっているということです。つまり、それだけ仕事の量が多いということです。
第6条の「うたえ」の中でもありましたが、「百姓(おほみたから)の訟(うたえ)は一日(ひとひ)に千事(ちわざ)あり」とされていました。それだけ公務の量も多く、多忙だった姿がうかがえます。
「終日」は「ひめもす」あるいは「ひねもす」と読み、もとは太陽が昇っている間中という意味ですが、転じて一日中という意味です。
したがって、遅く参ると、「急なるに逮ばず」。「逮ばず」は「およばず」と読み、速やかな案件が出てきたときに対応することができないということになります。早く退庁すれば、必ず仕事が終わらないということです。
この条の訳を以下にまとめます。
「第八条 すべての役人は朝早く出勤し(朝)遅くに退庁しましょう。公のことは休む間もなく、一日中働いても終えることができません。したがって遅くに出勤すれば、急な事案に対応することができず、早く退庁すれば必ず仕事が終わりません。」
以上