十七条の憲法⑦
◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている⑦?
七(ななつ)に曰(いは)く、人(ひと)各(おのおの)任(よさし)有(あ)り、掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。其(そ)れ賢哲(さかしきひと)官(つかさ)に任(よさ)すときは、頌音(ほむるこゑ)則(すなは)ち起(おこ)り、姧者(かたましきひと)官(つかさ)を有(たも)つときは、禍(わざはひ)乱(みだれ)則(すなは)ち繁(しげ)し。世(よ)に生(う)まれながら知(し)ること少(すく)なけれども、剋(よ)く念(おも)ひて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少(おほひなりいささけき)となく、人(ひと)を得(え)て必(かなら)ず治(おさ)まる。時(とき)急緩(ときおそき)となく、賢(さかしきひと)に遇(あ)ひて自(おのづか)ら寛(ゆたか)なり。此(これ)に因(よ)りて国家(あめのした)永(なが)く久(ひさ)しくして、社稷(くに)危(あやう)きこと勿(な)し。故(か)れ古(いにしへ)の聖(ひじりの)王(きみ)、官(つかさ)の為(た)めに以(もつ)て人(ひと)を求(もと)む、人(ひと)の為(た)めに官(つかさ)を求(もと)めたまはず。 |
第七条は、「任官」がテーマです。
第一条から振り返ってみると、第一条は「やはらぎ」、第二条は「仏教」、第三条は「つつしみ」、第四条は「うやまひ」、第五条は「うたえ」、第六条は「善悪」でした。
第一条は、上司がなごやかな空気を作り出すことで心を一つにすることを説き、第二条は心を平穏にするための教えとして仏教を説き、また第三条では天皇陛下のお言葉を受けたときに我が身を振り返ってよく考えることを説いています。そして、第四条では具体的な行動として、相手を上に見る行動をすることで互いに尊重しあう世の中にし、第五条では訴えを公平に審理することで民の拠り所をつくり、第六条では人の良い行動をたたえ、悪い行動を戒めるという行動実線を説きました。
十七条の憲法は、既に述べたように冠位を持つ者への教え、行動哲学として述べられたものであり、非常に実践的な内容です。同時に、国をいかにして治めるか、いかにして民を豊かに安らかにするかという思いが根本にあります。そして、我が国古来の思想や法律、教えをベースにしながら、仏教の考え方や中国の思想・表現を取り入れていることが分かります。
そして、よく読めば、印度と中国の思想を単に取り入れたものではなく、あくまで日本の古来の思想や教えに基づきながら、印度や中国にはない、新たな教えを作り出しているのが本当のところだと感じられます。その例が、第一条の「やわらぎ」や第三条の「つつしみ」であり、また、第四条の「うやまひ」を庶民にまで広げるなど、我が国固有の思想や発想だと分かります。また、第六条や第十六条では、「古の良き典(のり)なり」として我が国の古くからの法律・しきたりを指摘しています。
第七条でも最後に、「古の聖王は」とありますが、これは「いにしえのひじりのきみ」と読み、我が国のおおきみのことを指します。たとえば、日本書紀には、第11代の垂仁天皇の御代、朝鮮半島にあった加羅国の王子が「日本国(やまとのくに)に聖皇(ひじりのきみ)有すと聞りて帰化す」と書かれています。「王」も「皇」も「きみ」と読みます。加羅国の王子が、日本に「ひじりのきみ」がいらっしゃると承って帰化したのです。ほかにも新羅国王の子が「日本国(やまとのくに)に聖皇(ひじりのきみ)有すと聞り」と来日したことが書かれてあります。
したがって、第七条も、日本古来の教えをもとに、任官の考え方を説いているのです。
まず「任」は「よさし」と読みます。任せることを「よさす」と言いました。「よさす」は「寄さす」意味と考えられます。祝詞に詳しい方がいらっしゃれば、神社の大祓詞でも、二神が皇孫に対し、日本を治めることを「ことよさしまつる」(お任せになった)という下りがあります。
人各任有りとは、人はそれぞれ任せられた務めがあるという意味です。
「濫れざるべし」は濫り(みだり)に行ってはならないという意味であり、任務を適切に行わなければならないということです。
第七条の最後に、「官のために人を求め、人のために官を求めず」とありますが、本条の趣旨はまさにこのとおりで、任務を適切に行うことができる人を求めなければならないということです。
「賢哲」は「さかしきひと」つまり優秀な人という意味です。「頌音」は「ほむるこゑ」つまり優秀な人を任官させると褒め称える声が聞こえるということです。
第2文までを訳します。
人にはそれぞれ任された務めがあり、その務めを適切に行わなければなりません。賢い人を任官させると、褒め称える声が起こり、悪い人が官にあり続けると災いや乱れが多くなります。
また、世に生まれながら知る人は少ないけれども、よく考え学んで「ひじり」となる。「聖」は「ひじり」と読みますが、「ひじり」は「日+知り」からきていると思われ、日に日に知ることで、ひじり(聖)となるわけです。「大少」は「おほいなりいささけき」と読みますが、大きいこともわずかなこともという意味です。
「急緩」は「ときおそき」と読みますが、緊急のときでもという意味で、「寛」は「ゆたか」と読み、ゆるやかという意味です。「社稷」は音読みすると「しゃしょく」ですが「くに」(国)のことです。
第6文までを訳します。
世に生まれながら知ることは少ないけれども、日に日によく考え学ぶことで立派な人、ひじりとなります。重大なことでも些細なことでも、よい人がいれば必ずうまくゆきます。急を要することでも、賢い人がいると自然と落ち着いて対処することができます。こうすれば、国は長きにわたって危ういことがありません。
「古の聖王」は、前段でも述べましたが、「いにしへのひじりのきみ」と読み、我が国の昔の優れた大王(おおきみ)・天皇(すめらみこと)のことです。
最後の文を訳します。
よって我が国昔の優れた大王(おおきみ)は、官職のために人を求め、人のために官職を求めませんでした。
まとめると、次のようになります。
「第七条 人にはそれぞれ任された務めがあり、その務めを適切に行わなければなりません。賢い人を任官させると、褒め称える声が起こり、悪い人が官にあり続けると災いや乱れが多くなります。世に生まれながら知ることは少ないけれども、日に日によく考え学ぶことで立派な人、ひじりとなります。重大なことでも些細なことでも、よい人がいれば必ずうまくゆきます。急を要することでも、賢い人がいると自然と落ち着いて対処することができます。こうすれば、国は長きにわたって危ういことがありません。よって我が国昔の優れた大王(おおきみ)は、官職のために人を求め、人のために官職を求めませんでした。」
結局、第七条では、任官の際には、その務めを行うのにふさわしい優れた人を求めるよう説いています。これは、当たり前と言えば当たり前のことですが、官職にある者の血縁や地縁ということでの任官、つまり縁故採用が多くなった結果、その任に堪えない者がでてくる弊害が起きていたためと考えるのが自然です。
人は第一の宝です。どんな優れた制度やどんな役職をつくっても、それを動かすのは結局人ですから、よい人が就けばうまくゆきますし、その任に堪えない人が就けばうまくゆきません。聖徳太子はまさにこのことを言っています。
以上