BLOG ブログ

弁護士ブログ

十七条の憲法④

◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている④?

(よつ)に曰(いは)く、群卿(まちきみたち)百寮(つかさつかさ)禮(うやまひ)以(もつ)本(もと)為(せ)よ。其(そ)民(たみ)治(おさ)むる本(もと)は、要(かなら)禮(うやまひ)在(あ)り。上(かみ)禮(うやま)はずんば下(しも)齊(ととの)ほらず、下(しも)禮(うやまひ)無(な)きときは、必(かなら)罪(つみ)有(あ)り。是(これ)以(もつ)群臣(まちきみたち)禮(うやまひ)有(あ)るときは位(くらゐの)次(ついで)乱(みだ)れず、百姓(おほみたから)禮(うやまひ)有(あ)るときは国家(あめのした)自(おのづ)から治(おさ)まる。

 

第四条は「うやまひ」がテーマです。ここでは、「禮」という漢字を「うやまひ」(発生は「うやまい」)と呼んでいます。「禮」は「礼」の旧字体です。礼儀や礼服の「礼」です。今では「れい」と読み、学校でも「起立」「礼」と号令をかけますね。武道も「礼に始まって礼に終わる」という言葉があります。天皇陛下の「即位の礼」というようにも使われます。

聖徳太子の時代には「礼」または「禮」と書いて「うやまひ」と読みました。「うやまひ」とは、相手を上に見る行為のことです。

皆さん、「うやまひ」を行動で示してみてください、と言われたらどんな行動をしますか?突然言われると戸惑ってしまうかもしれませんが、立ったまま頭を下げてお辞儀をしたり、畳に座っているときは、前に手をついて頭を下げたりするのではないでしょうか。問題は、そのとき目はどこを向いていますか?「うやまひ」のときは、目線は相手を意識して、上目遣いになり、上を向いているのではないでしょうか。

「おがんでください」と言われると、両手を合わせて頭を下げ、目線も特に意識しないかもしれません。「うやまってください」と言われると、頭を下げつつも、目線が相手の方を意識する、こんな違いがあるのではないかと思います。

前置きが長くなりましたが、このように、「うやまひ」とは、相手を上に見る行為のことです。語源ははっきりしませんが、「うえ(上)」に「みまふ(見舞ふ)」が「うやまふ」となまったのではないかと私は考えております。

相手を上に見るには、相手の下に自分の目線をおいて、相手を見上げることになります。それは、相手に敬意を払うということであり、へりくだるということです。自分が上に立とうとせずに、相手を立てるということです。これは、気持ちだけでなく、具体的な行動が伴います。おじぎをする、頭を下げる、深々と礼をする、話を丁寧な態度で聞く、感謝の言葉を述べる、などの相手を上に見るための具体的な行動として現れるものが「うやまひ」です。

「うやまひ」に「禮」(礼)という漢字が充てられたのは適切だったと思いますが、「うやまひ」はただ単に礼をすることをいうのではなく、相手を上に見るすべての行動を言います。一度、そのような意識で行動してみると、「うやまひ」が実感できるのではないかと思います。

では、最初の2文を訳します。

あらゆる冠位を持つ者は、「うやまひ」を行動の基本としましょう。「うやまひ」とは、お辞儀をする、頭を下げる、へりくだる、相手の話を丁寧に聞く、感謝の言葉を述べるなど、相手を上に見るすべての行為をいいます。民を治める基本はすべて「うやまひ」にあります。

次の文は、上司と部下について述べています。上司に「うやまひ」がなければ、部下は大切にされているという実感が持てず、上司が部下を掌握することができません。また、部下に「うやまひ」がないと、礼儀や注意を欠くわけですから、必ず何らかの罪を犯してしまいます。

上司が「うやまひ」をしなければ部下をまとめることができず、部下に「うやまひ」がないときは必ず何かの罪を犯してしまいます。

最後の文は、役人全員から庶民に至るまですべての人を対象にしています。群臣は「まちきみたち」つまり役人のことを言います。「位次」は「くらいのついで」と読み、冠位の順序、上下関係という意味でよいと思います。「百姓」は「ひゃくしょう」ではなく、「おほみたから」と読み、役人ではないすべての民のことを指します。民は大切な宝という意味に読むのも面白いポイントです。

中国には「礼記」「孝経」「論語」など「礼」について書かれた古典はたくさんありますが、聖徳太子の十七条の憲法で特徴的なのは、一般の庶民にも「礼」を求めていることです。中国の古典では「礼は庶人に下らず」とあり(礼記・曲礼篇)、礼はあくまで主君や官僚に求めるものであって、庶民に求めるものではありませんでした。聖徳太子は、中国思想の「礼」に限定して考えたのではなく、日本古来の「うやまひ」(礼)という観念としてとらえていたために、一般庶民にも「うやまひ」を求め、互いに相手を尊敬する行動に基づいた国づくりを目指したと考えられます。

また、「国家」は「あめのした」と読みます。「自から治まる」とは、自然と治まってゆくということですが、「自治」と書いて「おのづからおさまる」と読むのは新鮮な響きがあります。「地方自治」や「自治会」という言葉として今も「自治」という言葉が使われていますが、そのばあい、市町村や自分たちの会を「みづからおさめる」という意味で考えてしまうことがほとんどです。しかしながら、「うやまひ」を持っていれば、「自治」は「おのづからおさまる」という発想に変ってゆくことも面白いポイントではないかと思います。

最後の文を訳します。

したがって、役人に「うやまひ」があるときは上下関係が乱れず、庶民に「うやまひ」があるときは、互いに相手を立てて行動しあうようになるので、国中が自然とうまく治まってゆくのです。

いかがでしたでしょうか。第四条になると、冠位を持つ者の行動哲学から出発して、全ての役人(群臣)や一般庶民(百姓)にも「うやまひ」の大切さを説いており、国中が自然とうまく治まりゆくという理想を語っています。ここまでくると、十七条の憲法は冠位を持つ者だけにとどまらない、国中の民に向けた教えであることが分かってくるのではないでしょうか。

まとめると、次のようになります。

第四条 あらゆる冠位を持つ者は、「うやまひ」を行動の基本としましょう。「うやまひ」とは、お辞儀をする、頭を下げる、へりくだる、相手の話を丁寧に聞く、感謝の言葉を述べるなど、相手を上に見るすべての行為をいいます。民を治める基本はすべて「うやまひ」にあります。上司が「うやまひ」をしなければ部下をまとめることができず、部下に「うやまひ」がないときは必ず何かの罪を犯してしまいます。したがって、役人に「うやまひ」があるときは上下関係が乱れず、庶民に「うやまひ」があるときは、互いに相手を立てて行動しあうようになるので、国中が自然とうまく治まってゆくのです。

以上

十七条の憲法③(第三条)

◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている?③

(みつ)に(いは)く、(みことのり)を(うけたまは)りては(かなら)ず(つつし)め。(きみ)をば(すなは)ち(あめ)とす、(やつこら)をば(すなわ)ち(つち)とす。(あめ)(おほ)ひ(つち)(の)せて、四時(よつのとき)(めぐ)り(ゆ)き、(よろづの)(しるし)(かよ)ふことを(うる)。(つち)、(あめ)を(おほ)はむと(す)るときは、(すなは)ち(やぶ)ることを(いた)さむのみ。(これ)を(もつ)て(きみ)(のたま)ふときは(やつこら)(うけたまは)り、(かみ)(おこな)ふときは(しも)(なび)く。(ゆゑ)に(みことのり)を(うけたまは)りては(かなら)ず(つつし)め、(つつし)まずんば(おのず)からに(やぶ)れなむ。

第三条は「みことのり」と「つつしみ」がテーマです。

「詔」は「みことのり」と読み、天皇陛下のお言葉のことを言います。「のり」は「宣る(のる)」つまり述べることを言います。神社の「祝詞(のりと)」は神に述べる言葉のことを言いますし、「祈り(いのり)」は「意(い)」を「宣る(のる)」、思いを言うことから来ています。名前を言うことを「名乗る(なのる)」とも言いますね。詔は「みこと」+「のり」であり、「みこと」は皇室の尊称と考えると、天皇陛下のお言葉という意味になります。

天皇陛下のお言葉を受けたときは、必ずつつしみなさい、ということが書かれています。では「つつしむ」とはどういうことでしょうか。「つつしむ」は「つつむ」から来ており、たくさんの着物を身にまとうイメージです。女性が妊娠した初期のころ、体を冷やさないように衣服をしっかり身にまとい、食事も行動も控えめにするのを、母のつつしみと言います。「包み隠さず話す」などと言いますが、その逆で、正装して着物でしっかり体を覆い、包み隠すわけです。結婚式や式典などで、たくさんの衣装を身にまとい、厚化粧をし、裃、袴、冠を身に付けると、軽々しく動いたり話したりすることができなくなり、すべての行動が慎重になりますね。そのように、たくさんの着物をきちんと身にまとい、すべての行動について慎重になり、本当に必要な行動は何かよくよく考えてから行動しようという心の状態を「つつしむ」といいます。

だから、天皇のお言葉である「みことのり」を受けたときは、臣(やつこら、または、おみ、とみとも言います。)は、「つつしむ」、つまり、天皇陛下はどのような意味で言葉を発せられたのだろうかと推し量り、これまでの自分の考えや行動は間違っていなかったかどうか、あるいはこれからしようとしていることは間違っていないだろうかと謙虚な気持ちで行動を慎重に考え直しなさいということなのです。以下訳します。

天皇のお言葉を承ったときは、必ずつつしみなさい。どのようなお気持ちでお言葉を発せられたのかをよく考え、自分の考えや行動に間違いがないか、謙虚な気持ちで考え直し、臣下としてのふるまいに十分気を付けるようにしなさい。

この後は、天皇を天(あめ)、臣下を地(つち)に例えています。

天皇を天(あめ)、臣下を地(つち)と例えることができます。天(あめ)が地(つち)を覆い、地(つち)が天(あめ)を載せることで、時が流れ、気が通い、ものごとが生み成されてゆきます。地(つち)が天(あめ)を覆うことを望むようになると、ものごとは壊れてしまうだけです。

そして、君と臣の関係、それから上司と部下の関係へとつなげて説明されます。臣の中にも上司と部下がいます。臣の上司が、天皇のお言葉を承り、つつしんで行うことで、臣の部下も、これになびき従うようになるという話です。部下を従わせるために、上司が天皇のお言葉に対して「つつしむ」ことが重要なポイントになります。

したがって、天皇がお言葉を発せられたときは、臣下はこれを承り、臣下の上司がつつしんで行うときは、部下も従うようになります。ですから天皇のお言葉を承ったときは、必ずつつしみなさい。上司がつつしまなければ、部下も言うことを聞かず、物事がうまくいかなくなるでしょう。

天皇―臣(上位)―臣(下位)という関係のもと、上級の冠位の者を念頭において説かれていると考えられます。現代の職場でも、社長―上司―部下と置き換えることができます。つまり、社長から指示や相談があったときは、「つつしむ」、つまり謙虚な気持ちで我が身を振り返って慎重に考えることが大事なのです。そうした上で、行動すれば、部下も自然となびき従うようになり事業がうまくいくようになりますよ、ということなのです。

これまた現代にも通ずる職場の行動哲学ということができるでしょう。まとめると、次のようになります。

第三条 天皇のお言葉を承ったときは、必ずつつしみなさい。どのようなお気持ちでお言葉を発せられたのかをよく考え、自分の考えや行動に間違いがないか、謙虚な気持ちで考え直し、臣下としてのふるまいに十分気を付けるようにしなさい。天皇を天(あめ)、臣下を地(つち)に例えると、天(あめ)が地(つち)を覆い、地(つち)が天(あめ)を載せることで、時が流れ、気が通い、ものごとが生み成されてゆきます。地(つち)が天(あめ)を覆うことを望むようになると、ものごとは壊れてしまうだけです。したがって、天皇がお言葉を発せられたときは、臣下はこれを承り、臣下の上司がつつしんで行うときは、部下も従うようになります。ですから天皇のお言葉を承ったときは、必ずつつしみなさい。上司がつつしまなければ、部下も言うことを聞かず、物事がうまくいかなくなるでしょう。

以上

十七条の憲法②(第2条)

◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている②?

(ふたつ)に(いは)く、(あつ)く三寳(みつのたから)を(うやま)へ。三寳(みつのたから)は佛法(ほとけのり)(ほふし)なり。(すなは)ち四生(よつのうまれ)の終帰(をはりのよりところ)、(よろづの)(くに)の極宗(きはめのむね)なり。(いづれ)の(よ)(いづれ)の(ひと)か(こ)の(みのり)を(たふと)ばざる。人尤(ひとはなは)だ(あ)しきもの(すくな)し、(よ)く(おし)ふるときは(したが)ふ。(そ)れ三寳(みつのたから)に(よ)りまつらずば、(いづれ)を(もつ)て(まが)れるを(ただ)さむ。

 

第二条のテーマは「仏教」です。聖徳太子は、大陸から伝わった仏教を受け入れて政治を行いました。

聖徳太子が二十歳となった推古天皇2年(西暦594年)、天皇は「三寳興隆の詔」を発し、各地に仏舎つまり寺が建てられるようになりました。翌年、高麗の僧慧慈は聖徳太子の師となり、百済の僧慧聡も来朝しました。その翌年には法興寺(飛鳥寺)が完成しました。推古天皇11年には蜂岡寺を造営し、斑鳩の法隆寺も後に完成しました。法隆寺は、「法隆学問寺」とも呼ばれており、海外の最先端の学問を受容し研究する拠点であったと言われています。

聖徳太子が仏教を取り入れた理由は、海外最先端の知識・技術を得ることにもあったと思いますが、ここでは臣下への教えとして仏教を説いています。聖徳太子は、この憲法十七条を作成した二年後には、勝鬘経・法華経を講説し、十年後には三経義疏を著すなど仏教そのものにも大変造詣が深かった方です。仏教によって、こころをよりよい方向に整えてゆくという力にも着目していたことは間違いないでしょう。

ですから、聖徳太子が冠位を持つ者に対して仏教を説いたのは、その精神性のためでもありました。

「三寳」は、三つの宝の意味であり、佛・法・僧を言います。「佛」とは、真理に目覚めた人をいい、「法」とは真理を説く教えを、「僧」とは仏教に帰依して修行する人を言います。

「四生」は、胎生、卵生、湿生、化生の四種類の生物のことで、生けとし生けるすべてのものを指します。「終帰」とは、「おわりのよりどころ」と読み、すべての生物にとって避けられない死に直面したときの拠り所ということです。

人は皆、生まれ、年をとり、病にかかり、死に至ります。これはすべての生物にとって避けられない定めであり、いかにしてこれらの苦しみと向き合い、心の平安を保つかはすべての人にとっての問題です。こうした生死の問題と向き合う仏教は、すべての人、すべての国にとって通じる教えなのです。

仏教は、苦しみが生まれる原因は欲にあると説きます。欲からむさぼりや怒りが生まれます。これらは物事への執着となって苦しみが生じます。したがって、こうした自らの苦しみの原因に気づき、さまざまな欲を手放すことが苦しみから解放されると説きます。苦しみから解放されると、心が平穏になります。心が平穏になると、冷静になって物事に対処することができ、智慧が生まれます。こうした智慧を生かすことが政治、すなわち民を治める仕事に必要なわけです。

前半を訳すと次のようになります。

篤く三つの宝を敬いなさい。三つの宝とは、仏教によって、真理に目覚めた人(佛)、真理を説く教え(法)、修行する人々(僧)です。生老病死について教える仏教は、すべての生きものにとって拠り所となり、すべての国に相通じる教えです。いったい、どの世の中にいるどんな人がこの教えを尊ばない人がいるでしょうか。

聖徳太子が仏教を説く目的は、「枉れるを直さん」ということにあります。「枉」は、曲がるという意味で、曲がってしまったものをまっすぐにしようと考えているわけです。もちろん、まっすぐでない人の心を、正しくしようと考えているわkです。

第一条では、「やはらぎ(和)」が最も大切であると説きました。しかし、どうやって「やはらぎ(和)」「かなふ(諧)」といった状態になれるかというと、心が平穏でなければなりません。聖徳太子は、仏教によって、人の心を正そうとしました。

先ほども説明したように、人の心が曲がってしまうのは、次々と出てくる欲を抑えきれず、コンロトールしきれないところにあります。しかし、生きる者は必ず年をとり、病気になり、死にます。人の欲に限りはありませんが、よりよく生きるためには、自分の欲が自分の苦しみを作り出しているということに気づくことが大切です。そうすると、心が平穏になり、智慧が生まれるからです。

そうした欲や心の在り方について、人からきちんと教えられれば、たいていの人は理解することができます。だから、聖徳太子は、分かりやすい言葉で仏教について皆に教えたに違いありません。以下後半を訳します。

物事を全く理解しない人は少ないので、正しく教えることができれば仏教にしたがうようになります。三つの宝に基づいて、自分の欲が苦しみを作り出していることに気づかせ、正しい心のもち方を教えなければ、いったいどのような方法で曲がった心を正しくすることができるでしょうか。

まとめると、次のようになります。

第二条 篤く三つの宝を敬いなさい。三つの宝とは、仏教によって、真理に目覚めた人(佛)、真理を説く教え(法)、修行する人々(僧)です。生老病死について教える仏教は、死ぬべき定めにあるすべての生きものにとって拠り所となり、すべての国に相通じる教えです。いったい、どの世の中にいるどんな人がこの教えを尊ばない人がいるでしょうか。物事を全く理解しない人は少ないので、正しく教えることができれば仏教にしたがうようになります。三つの宝に基づいて、自分の欲が苦しみを作り出していることに気づかせ、正しい心のもち方を教えなければ、いったいどのような方法で曲がった心を正しくすることができるでしょうか。

十七条の憲法には何が書かれている?

◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている?

憲法(いつくしきのり)十(とをあまり)七條(ななをち)
一(ひとつ)に曰(いは)く、和(やはらぎ)を以(もつ)て貴(とうと)しと為(な)し、忤(さか)ふること無(な)きを宗(むね)と
為(せ)よ。人(ひと)皆党(みなたむら)有(あ)り、亦(また)達(さと)れる者(もの)少(すく)なし。是(これ)を以(もつ)て、或(ある)いは
君父(きみかぞ)に順(したが)はずして乍(ま)た隣(さと)里(となり)に違(たが)ふ。然(しか)れども上(かみ)和(やは)らぎ、
下(しも)睦(むつ)びて事(こと)を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、即(すなは)ち事理(ことはり)自(おのづか)らに通(かよ)ふ、
何事(なにごと)か成(な)らざらん。

聖徳太子は推古天皇十二年(西暦604年)4月、憲法十七条を作りました。

この憲法は、わが国で初めて「憲法」と名づけられたもので、当時は「けんぽう」ではなく「いつくしきのり」と読まれていました。
この憲法十七条は、冠位を授けられた者に対する服務心得として作られたと言われています。前年12月には、冠位十二階を定め、翌月施行しており、この冠位十二階とほとんど時を同じくしています。
この憲法は、現代の「憲法」と全く同じ性質の法律とみることはできませんが、その思想や規範の内容は現代に通ずるものがあります。
「憲法十七条」は聞いたことがあっても、その中身までよく知らない人がいるのではないかと思い、ここで第1条だけでもご紹介したいと思います。

第1条は「和を以て貴しと為し」から始まります。このフレーズをご存じの方も多いのではないかと思いますが、実は「和」は「わ」ではなく「やはらぎ」と読みます(発声としては「やわらぎ」になります)。当時は漢字を「やまとことば」で読み下していたからです。「やまとことば」とは今の「訓読み」に当たります。だから「やはらぎをもってとうとしとなし」と読むのが正しいのです。

では、「和(やはらぎ)」とは何でしょうか。これは、なごやかな状態、仲睦まじくしている状態、やわらいだ空気と考えればよいと思います。
憲法十七条は役人の心得として定められたものですから、現代でいえば、役所や職場(会社)のルールとしても十分通用します。
つまり、仕事をする上では、ピリピリした空気、ぎすぎすした雰囲気というのはダメですよ、なごやかで、むつまじく、やわらいだ雰囲気が大事ですよ、ということが述べられています。以下訳していきます。
職場においては、なごやかな雰囲気、やわらいだ空気が最も大切であり、ぎすぎすしたり角が立つような状態が決してないようにしましょう。

次に「人皆党有り」というのは、「党」は「たむら」と読みます。たむろすると同じ意味です。人は皆群れを作りたがるという意味ですが、次の「さとれる者少なし」と対になって、ずば抜けて聡明ではなく、自分の利害や考え方にとらわれてしまいがちであるという意味でもあります。訳すと次のようになります。
人間は皆自分の利害や考えにとらわれがちであり、ものすごく聡明な者は少ないのですから、上司や親の言うことを聞かず、また家や村ごとに考え方も違います。

次の、「上和らぎ下睦びて」は、上司が和らぐことで部下が睦まじくなることを言います。和やかな雰囲気を作り出すことで、心が通い合い、互いに話がうまくできるようになり、物事を成し遂げることができるという意味です。以下訳します。
しかしながら、上司がなごやかな空気を作り出すことで、部下も皆むつまじくなり、議論をするときもなごやかな雰囲気があれば、お互いの考え方が自然と通じ合い、どんな事業でも実現することができるようになります。
これは、まさに現代に通じる職場の哲学ということができましょう。

まとめると、次のようになります。
「第一条 職場では、なごやかな雰囲気、やわらいだ空気が最も大切です。ぎすぎすしたり角が立つような状態が決してないようにしましょう。人間は皆自分の利害や考えにとらわれがちであり、ものすごく聡明な者は少ないのですから、上司や親の言うことを聞かず、また家や村ごとに考え方も違います。しかしながら、上司がなごやかな空気を作り出すことで、部下も皆むつまじくなり、議論をするときもなごやかな雰囲気があれば、お互いの考え方が自然と通じ合い、どんな事業でも実現することができるようになります。」

上の者が先頭に立って和やかな空気、「やはらぎ」を作り出すことがいかに大切かが分かる教えです。
いかがでしょうか。このように、約1400年前の日本で既にこのような思想が説かれており、憲法十七条として作られていたのです。この憲法十七条は、今からちょうど1300年前、元正天皇の養老四年(西暦720年)五月に作られた「日本書紀(やまとのふみ)」に書かれているものです。
ご家庭や職場でも、皆さんで一緒に憲法十七条を読んでみてはいかがでしょうか。
以上

土地の「境界」の問題はなぜわかりにくいのか

土地の「境界」の問題について、弁護士が相談を受けることもしばしばあります。

 

そして、境界の問題は、話が分かりにくくなる傾向にあります。

これは、「境界」という言葉の意味が、2つあるからです。

 

① 筆界・・・明治時代に、近代所有権制度ができて、

土地が分けられたときの境界。これを原始筆界といいます。

または、その後、新たに「分筆」して形成されたときの境界。

これらの境界は、あとで勝手に動くことはありません。

建物を建てようが、塀をつくろうが、穴をほろうが、何をしようが、

動きません。

土地を分筆した境として、法務局備え付けの地図(公図)に

記録されているものです。

 

② 所有権界・・・お互いの所有権の範囲の境です。

それぞれの所有権の範囲は、ふつうは、土地の「筆界」と一致

しますが、これは、様々な原因により、動くことがあります。

所有権界は、記録されていません。

 

ふつう、境界の問題というと、2人の所有権がそれぞれどこまでか?が一番問題

ですので、②の所有権界の話をテーマにしがちです。

 

しかし、専門家は、まず、①の筆界を確定 → ②の所有権界を確定

というプロセスをたどります。

 

したがって、まずは①の筆界が、土地の現場でどこにあるのか?を考えます。

 

筆界の判定は、歴史的な検証作業です。

つまり、原始筆界であれば、「明治時代に引かれた線はどこだったのか?」

というある意味考古学的な探求を行うわけです。

この探求は、登記図簿(法務局にある資料)の調査がまず第一であり、

次いで、その他の文献、図面、航空写真、そして、現地にある境界標識や

地形地物、古老の証言などが問題となります。

ですので、専門家の思考プロセスと、一般の方が考える思考プロセスが

少し違うのです。

 

そうして、①の筆界が特定されると、こんどは、②の所有権界がどこにあるか

という議論に入ります。

 

これは、基本的には筆界のとおりであると考えられるわけですが、

その後の占有事情の変化によっては、所有権界が筆界と異なっている

場合があります。

 

専門家は、このような用語の問題についても説明させていただきますが、

境界の問題の場合、特に、専門家の思考のプロセスが違っているんだ、

ということに気付いていただけると、理解がしやすいかもしれません。

 

 

こうした境界の問題は、ほとんどの場合、土地家屋調査士の専門分野ですが、

紛争性のある場合は、土地家屋調査士の先生とともに事件を担当させて

いただくことになります。

 

境界の問題は、最初は分かりにくいですが、

その土地の歴史的な変遷推移をすることができたり、

思わぬ発見がある、興味深い分野なのです。

 

最後まで、お読みいただきありがとうございました。

2 / 3123

カテゴリー

  1. お知らせ
  2. その他
  3. 大阪日日新聞
  4. 法律問題

最新の記事

  1. 6月25日 参政党ウェビナー「憲法と緊急事態条項の問題を考える勉強会」
  2. 12/24(土)「安達悠司講演会」のご案内
  3. 参議院選挙結果を受けまして
  4. 参議院選挙の出馬表明について
  5. 憲法十七條についての国体法勉強会(4月1日)

アーカイブ

  1. 2023年6月
  2. 2022年12月
  3. 2022年7月
  4. 2022年6月
  5. 2022年4月
  6. 2022年3月
  7. 2022年2月
  8. 2022年1月
  9. 2021年12月
  10. 2021年6月
  11. 2021年2月
  12. 2021年1月
  13. 2020年11月
  14. 2020年10月
  15. 2020年5月
  16. 2020年4月
  17. 2019年10月
  18. 2019年9月
  19. 2017年12月
  20. 2017年11月
  21. 2017年10月
  22. 2017年8月
  23. 2017年4月
< /div>

Pagetop