十七条の憲法③(第三条)
◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている?③
三(みつ)に曰(いは)く、詔(みことのり)を承(うけたまは)りては必(かなら)ず謹(つつし)め。君(きみ)をば即(すなは)ち天(あめ)とす、臣(やつこら)をば即(すなわ)ち地(つち)とす。天(あめ)覆(おほ)ひ地(つち)載(の)せて、四時(よつのとき)順(めぐ)り行(ゆ)き、萬(よろづの)気(しるし)通(かよ)ふことを得(うる)。地(つち)、天(あめ)を覆(おほ)はむと欲(す)るときは、即(すなは)ち壊(やぶ)ることを致(いた)さむのみ。是(これ)を以(もつ)て君(きみ)言(のたま)ふときは臣(やつこら)承(うけたまは)り、上(かみ)行(おこな)ふときは下(しも)靡(なび)く。故(ゆゑ)に詔(みことのり)を承(うけたまは)りては必(かなら)ず慎(つつし)め、謹(つつし)まずんば自(おのず)からに敗(やぶ)れなむ。 |
第三条は「みことのり」と「つつしみ」がテーマです。
「詔」は「みことのり」と読み、天皇陛下のお言葉のことを言います。「のり」は「宣る(のる)」つまり述べることを言います。神社の「祝詞(のりと)」は神に述べる言葉のことを言いますし、「祈り(いのり)」は「意(い)」を「宣る(のる)」、思いを言うことから来ています。名前を言うことを「名乗る(なのる)」とも言いますね。詔は「みこと」+「のり」であり、「みこと」は皇室の尊称と考えると、天皇陛下のお言葉という意味になります。
天皇陛下のお言葉を受けたときは、必ずつつしみなさい、ということが書かれています。では「つつしむ」とはどういうことでしょうか。「つつしむ」は「つつむ」から来ており、たくさんの着物を身にまとうイメージです。女性が妊娠した初期のころ、体を冷やさないように衣服をしっかり身にまとい、食事も行動も控えめにするのを、母のつつしみと言います。「包み隠さず話す」などと言いますが、その逆で、正装して着物でしっかり体を覆い、包み隠すわけです。結婚式や式典などで、たくさんの衣装を身にまとい、厚化粧をし、裃、袴、冠を身に付けると、軽々しく動いたり話したりすることができなくなり、すべての行動が慎重になりますね。そのように、たくさんの着物をきちんと身にまとい、すべての行動について慎重になり、本当に必要な行動は何かよくよく考えてから行動しようという心の状態を「つつしむ」といいます。
だから、天皇のお言葉である「みことのり」を受けたときは、臣(やつこら、または、おみ、とみとも言います。)は、「つつしむ」、つまり、天皇陛下はどのような意味で言葉を発せられたのだろうかと推し量り、これまでの自分の考えや行動は間違っていなかったかどうか、あるいはこれからしようとしていることは間違っていないだろうかと謙虚な気持ちで行動を慎重に考え直しなさいということなのです。以下訳します。
天皇のお言葉を承ったときは、必ずつつしみなさい。どのようなお気持ちでお言葉を発せられたのかをよく考え、自分の考えや行動に間違いがないか、謙虚な気持ちで考え直し、臣下としてのふるまいに十分気を付けるようにしなさい。
この後は、天皇を天(あめ)、臣下を地(つち)に例えています。
天皇を天(あめ)、臣下を地(つち)と例えることができます。天(あめ)が地(つち)を覆い、地(つち)が天(あめ)を載せることで、時が流れ、気が通い、ものごとが生み成されてゆきます。地(つち)が天(あめ)を覆うことを望むようになると、ものごとは壊れてしまうだけです。
そして、君と臣の関係、それから上司と部下の関係へとつなげて説明されます。臣の中にも上司と部下がいます。臣の上司が、天皇のお言葉を承り、つつしんで行うことで、臣の部下も、これになびき従うようになるという話です。部下を従わせるために、上司が天皇のお言葉に対して「つつしむ」ことが重要なポイントになります。
したがって、天皇がお言葉を発せられたときは、臣下はこれを承り、臣下の上司がつつしんで行うときは、部下も従うようになります。ですから天皇のお言葉を承ったときは、必ずつつしみなさい。上司がつつしまなければ、部下も言うことを聞かず、物事がうまくいかなくなるでしょう。
天皇―臣(上位)―臣(下位)という関係のもと、上級の冠位の者を念頭において説かれていると考えられます。現代の職場でも、社長―上司―部下と置き換えることができます。つまり、社長から指示や相談があったときは、「つつしむ」、つまり謙虚な気持ちで我が身を振り返って慎重に考えることが大事なのです。そうした上で、行動すれば、部下も自然となびき従うようになり事業がうまくいくようになりますよ、ということなのです。
これまた現代にも通ずる職場の行動哲学ということができるでしょう。まとめると、次のようになります。
「第三条 天皇のお言葉を承ったときは、必ずつつしみなさい。どのようなお気持ちでお言葉を発せられたのかをよく考え、自分の考えや行動に間違いがないか、謙虚な気持ちで考え直し、臣下としてのふるまいに十分気を付けるようにしなさい。天皇を天(あめ)、臣下を地(つち)に例えると、天(あめ)が地(つち)を覆い、地(つち)が天(あめ)を載せることで、時が流れ、気が通い、ものごとが生み成されてゆきます。地(つち)が天(あめ)を覆うことを望むようになると、ものごとは壊れてしまうだけです。したがって、天皇がお言葉を発せられたときは、臣下はこれを承り、臣下の上司がつつしんで行うときは、部下も従うようになります。ですから天皇のお言葉を承ったときは、必ずつつしみなさい。上司がつつしまなければ、部下も言うことを聞かず、物事がうまくいかなくなるでしょう。」
以上
十七条の憲法②(第2条)
◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている②?
二(ふたつ)に曰(いは)く、篤(あつ)く三寳(みつのたから)を敬(うやま)へ。三寳(みつのたから)は佛法(ほとけのり)僧(ほふし)なり。即(すなは)ち四生(よつのうまれ)の終帰(をはりのよりところ)、萬(よろづの)国(くに)の極宗(きはめのむね)なり。何(いづれ)の世(よ)何(いづれ)の人(ひと)か是(こ)の法(みのり)を貴(たふと)ばざる。人尤(ひとはなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すくな)し、能(よ)く教(おし)ふるときは従(したが)ふ。其(そ)れ三寳(みつのたから)に帰(よ)りまつらずば、何(いづれ)を以(もつ)て枉(まが)れるを直(ただ)さむ。 |
第二条のテーマは「仏教」です。聖徳太子は、大陸から伝わった仏教を受け入れて政治を行いました。
聖徳太子が二十歳となった推古天皇2年(西暦594年)、天皇は「三寳興隆の詔」を発し、各地に仏舎つまり寺が建てられるようになりました。翌年、高麗の僧慧慈は聖徳太子の師となり、百済の僧慧聡も来朝しました。その翌年には法興寺(飛鳥寺)が完成しました。推古天皇11年には蜂岡寺を造営し、斑鳩の法隆寺も後に完成しました。法隆寺は、「法隆学問寺」とも呼ばれており、海外の最先端の学問を受容し研究する拠点であったと言われています。
聖徳太子が仏教を取り入れた理由は、海外最先端の知識・技術を得ることにもあったと思いますが、ここでは臣下への教えとして仏教を説いています。聖徳太子は、この憲法十七条を作成した二年後には、勝鬘経・法華経を講説し、十年後には三経義疏を著すなど仏教そのものにも大変造詣が深かった方です。仏教によって、こころをよりよい方向に整えてゆくという力にも着目していたことは間違いないでしょう。
ですから、聖徳太子が冠位を持つ者に対して仏教を説いたのは、その精神性のためでもありました。
「三寳」は、三つの宝の意味であり、佛・法・僧を言います。「佛」とは、真理に目覚めた人をいい、「法」とは真理を説く教えを、「僧」とは仏教に帰依して修行する人を言います。
「四生」は、胎生、卵生、湿生、化生の四種類の生物のことで、生けとし生けるすべてのものを指します。「終帰」とは、「おわりのよりどころ」と読み、すべての生物にとって避けられない死に直面したときの拠り所ということです。
人は皆、生まれ、年をとり、病にかかり、死に至ります。これはすべての生物にとって避けられない定めであり、いかにしてこれらの苦しみと向き合い、心の平安を保つかはすべての人にとっての問題です。こうした生死の問題と向き合う仏教は、すべての人、すべての国にとって通じる教えなのです。
仏教は、苦しみが生まれる原因は欲にあると説きます。欲からむさぼりや怒りが生まれます。これらは物事への執着となって苦しみが生じます。したがって、こうした自らの苦しみの原因に気づき、さまざまな欲を手放すことが苦しみから解放されると説きます。苦しみから解放されると、心が平穏になります。心が平穏になると、冷静になって物事に対処することができ、智慧が生まれます。こうした智慧を生かすことが政治、すなわち民を治める仕事に必要なわけです。
前半を訳すと次のようになります。
篤く三つの宝を敬いなさい。三つの宝とは、仏教によって、真理に目覚めた人(佛)、真理を説く教え(法)、修行する人々(僧)です。生老病死について教える仏教は、すべての生きものにとって拠り所となり、すべての国に相通じる教えです。いったい、どの世の中にいるどんな人がこの教えを尊ばない人がいるでしょうか。
聖徳太子が仏教を説く目的は、「枉れるを直さん」ということにあります。「枉」は、曲がるという意味で、曲がってしまったものをまっすぐにしようと考えているわけです。もちろん、まっすぐでない人の心を、正しくしようと考えているわkです。
第一条では、「やはらぎ(和)」が最も大切であると説きました。しかし、どうやって「やはらぎ(和)」「かなふ(諧)」といった状態になれるかというと、心が平穏でなければなりません。聖徳太子は、仏教によって、人の心を正そうとしました。
先ほども説明したように、人の心が曲がってしまうのは、次々と出てくる欲を抑えきれず、コンロトールしきれないところにあります。しかし、生きる者は必ず年をとり、病気になり、死にます。人の欲に限りはありませんが、よりよく生きるためには、自分の欲が自分の苦しみを作り出しているということに気づくことが大切です。そうすると、心が平穏になり、智慧が生まれるからです。
そうした欲や心の在り方について、人からきちんと教えられれば、たいていの人は理解することができます。だから、聖徳太子は、分かりやすい言葉で仏教について皆に教えたに違いありません。以下後半を訳します。
物事を全く理解しない人は少ないので、正しく教えることができれば仏教にしたがうようになります。三つの宝に基づいて、自分の欲が苦しみを作り出していることに気づかせ、正しい心のもち方を教えなければ、いったいどのような方法で曲がった心を正しくすることができるでしょうか。
まとめると、次のようになります。
「第二条 篤く三つの宝を敬いなさい。三つの宝とは、仏教によって、真理に目覚めた人(佛)、真理を説く教え(法)、修行する人々(僧)です。生老病死について教える仏教は、死ぬべき定めにあるすべての生きものにとって拠り所となり、すべての国に相通じる教えです。いったい、どの世の中にいるどんな人がこの教えを尊ばない人がいるでしょうか。物事を全く理解しない人は少ないので、正しく教えることができれば仏教にしたがうようになります。三つの宝に基づいて、自分の欲が苦しみを作り出していることに気づかせ、正しい心のもち方を教えなければ、いったいどのような方法で曲がった心を正しくすることができるでしょうか。」
ほんとうの憲法を学ぶ勉強会(修正)
11月4日から、当事務所にて少人数の勉強会を行いますので、
ご興味のある方はご連絡下さい!
zoom参加も可能となりました。
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ほんとうの憲法を学ぶ勉強会
安達法律事務所
弁護士 安達悠司
これまでの法律的常識を取り払い、わが国の2000年以上にわたる歴史をふまえ、憲法とはいったい何なのかを一から考える勉強会です。
憲法は、我が国の基本法であり、本来はこれを学ぶことにより、国を尊び、祖先を敬い、国民の生活を安らかで豊かにするものであるべきです。
この勉強会は、憲法を学ぶことにより、心を養い、視野を広げ、叡智を身に付け、各々の人生を豊かにすることを理想として行います。
新進気鋭の政治家・学者・経営者必見です。一般の方や学生、初心者の方も大歓迎です。テーマは大きいですが、法律の常識にとらわれない、いつでも質問可、途中入退室自由、少人数のアットホームな場にしようと思います。
■日時■ 令和2年11月4日(水)午後6時30分~午後8時30分
■場所■ 安達法律事務所 京都市中京区東洞院通竹屋町下る三本木五丁目470番地
竹屋町法曹ビル2階(TEL 075-221-5575)
地下鉄烏丸線丸太町駅 徒歩3分 駐車場なし
■費用■ 1000円(税込) zoom視聴の場合は事前の振込をお願いします。
■定員■ 10名程度(予約順)+ zoom視聴の参加者
■内容■ ほんとうの憲法に関する勉強会 ①憲法と天皇
弁護士安達悠司の解説により、憲法における中心的存在である天皇について学びます。「天皇」とは何か、天皇の定義を調べてもほとんどの憲法の解説には書いてありません。なぜ最も中心的存在である天皇の定義の問題を多くの憲法学者が避けているのか?天皇の定義を調べることは我が国の憲法の重大な問題にたどりつきます。それは、、、。解説90分、質疑応答+意見交換
■申込■ 下記申込書をFAXしていただくか、電話・メール(adachi@adachi-kyoto.com)にてご連絡ください。残席あれば当日参加も可能です。
☆zoom参加の場合☆ 必ず前日までにメールにてご連絡ください。振込先をご連絡しますので、お振込後に配信方法をメールでご連絡します。
■次回以降の日程■
11月12日(木)午後6時30分~午後8時30分 ②憲法の基本原理
11月18日(水)午後6時30分~午後8時30分 ③十七条憲法
12月 2日(水)午後6時30分~午後8時30分 ④憲法と国防
12月10日(木)午後6時30分~午後8時30分 ⑤あるべき憲法とは
(各回は別個の内容であり、単発での参加も可能です。)
十七条の憲法には何が書かれている?
◆弁護士コラム◆ 十七条の憲法には何が書かれている?
憲法(いつくしきのり)十(とをあまり)七條(ななをち)
一(ひとつ)に曰(いは)く、和(やはらぎ)を以(もつ)て貴(とうと)しと為(な)し、忤(さか)ふること無(な)きを宗(むね)と
為(せ)よ。人(ひと)皆党(みなたむら)有(あ)り、亦(また)達(さと)れる者(もの)少(すく)なし。是(これ)を以(もつ)て、或(ある)いは
君父(きみかぞ)に順(したが)はずして乍(ま)た隣(さと)里(となり)に違(たが)ふ。然(しか)れども上(かみ)和(やは)らぎ、
下(しも)睦(むつ)びて事(こと)を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、即(すなは)ち事理(ことはり)自(おのづか)らに通(かよ)ふ、
何事(なにごと)か成(な)らざらん。
聖徳太子は推古天皇十二年(西暦604年)4月、憲法十七条を作りました。
この憲法は、わが国で初めて「憲法」と名づけられたもので、当時は「けんぽう」ではなく「いつくしきのり」と読まれていました。
この憲法十七条は、冠位を授けられた者に対する服務心得として作られたと言われています。前年12月には、冠位十二階を定め、翌月施行しており、この冠位十二階とほとんど時を同じくしています。
この憲法は、現代の「憲法」と全く同じ性質の法律とみることはできませんが、その思想や規範の内容は現代に通ずるものがあります。
「憲法十七条」は聞いたことがあっても、その中身までよく知らない人がいるのではないかと思い、ここで第1条だけでもご紹介したいと思います。
第1条は「和を以て貴しと為し」から始まります。このフレーズをご存じの方も多いのではないかと思いますが、実は「和」は「わ」ではなく「やはらぎ」と読みます(発声としては「やわらぎ」になります)。当時は漢字を「やまとことば」で読み下していたからです。「やまとことば」とは今の「訓読み」に当たります。だから「やはらぎをもってとうとしとなし」と読むのが正しいのです。
では、「和(やはらぎ)」とは何でしょうか。これは、なごやかな状態、仲睦まじくしている状態、やわらいだ空気と考えればよいと思います。
憲法十七条は役人の心得として定められたものですから、現代でいえば、役所や職場(会社)のルールとしても十分通用します。
つまり、仕事をする上では、ピリピリした空気、ぎすぎすした雰囲気というのはダメですよ、なごやかで、むつまじく、やわらいだ雰囲気が大事ですよ、ということが述べられています。以下訳していきます。
職場においては、なごやかな雰囲気、やわらいだ空気が最も大切であり、ぎすぎすしたり角が立つような状態が決してないようにしましょう。
次に「人皆党有り」というのは、「党」は「たむら」と読みます。たむろすると同じ意味です。人は皆群れを作りたがるという意味ですが、次の「さとれる者少なし」と対になって、ずば抜けて聡明ではなく、自分の利害や考え方にとらわれてしまいがちであるという意味でもあります。訳すと次のようになります。
人間は皆自分の利害や考えにとらわれがちであり、ものすごく聡明な者は少ないのですから、上司や親の言うことを聞かず、また家や村ごとに考え方も違います。
次の、「上和らぎ下睦びて」は、上司が和らぐことで部下が睦まじくなることを言います。和やかな雰囲気を作り出すことで、心が通い合い、互いに話がうまくできるようになり、物事を成し遂げることができるという意味です。以下訳します。
しかしながら、上司がなごやかな空気を作り出すことで、部下も皆むつまじくなり、議論をするときもなごやかな雰囲気があれば、お互いの考え方が自然と通じ合い、どんな事業でも実現することができるようになります。
これは、まさに現代に通じる職場の哲学ということができましょう。
まとめると、次のようになります。
「第一条 職場では、なごやかな雰囲気、やわらいだ空気が最も大切です。ぎすぎすしたり角が立つような状態が決してないようにしましょう。人間は皆自分の利害や考えにとらわれがちであり、ものすごく聡明な者は少ないのですから、上司や親の言うことを聞かず、また家や村ごとに考え方も違います。しかしながら、上司がなごやかな空気を作り出すことで、部下も皆むつまじくなり、議論をするときもなごやかな雰囲気があれば、お互いの考え方が自然と通じ合い、どんな事業でも実現することができるようになります。」
上の者が先頭に立って和やかな空気、「やはらぎ」を作り出すことがいかに大切かが分かる教えです。
いかがでしょうか。このように、約1400年前の日本で既にこのような思想が説かれており、憲法十七条として作られていたのです。この憲法十七条は、今からちょうど1300年前、元正天皇の養老四年(西暦720年)五月に作られた「日本書紀(やまとのふみ)」に書かれているものです。
ご家庭や職場でも、皆さんで一緒に憲法十七条を読んでみてはいかがでしょうか。
以上
検察庁法改正に関する日弁連会長声明に対する私見
R020511日弁連会長声明に対する私見_R020512
検察庁法改正に関する日弁連会長声明に対する私見
1 日弁連会長声明の要旨
日弁連は、令和2年5月11日付の「改めて検察庁法の一部改正に反対する会長声明」において、次のとおり述べ、検察庁法の改正に反対している。
「当連合会は、検察官の65歳までの定年延長や役職定年の設定自体について反対するものではないが、内閣ないし法務大臣の裁量により役職延長や勤務延長が行われることにより、不偏不党を貫いた職務遂行が求められる検察の独立性が侵害されることを強く危惧する。『準司法官』である検察官の政治的中立性が脅かされれば、憲法の基本原則である三権分立を揺るがすおそれさえあり、到底看過できない。少なくとも当該法案部分は削除されるべきである。」
要するに、日弁連は、内閣ないし法務大臣の「裁量」によって定年後の役職延長や勤務延長がなされる「危惧」を理由に、制度自体に反対している。
2 検察官に対し、内閣及び法務大臣の人事権等が既に存在すること
検察官は、捜査及び起訴等の強大な権限を有し司法的役割を果たしているが、裁判所のような司法機関そのものではなく、あくまで法務省に属する行政機関である。日弁連も検察官を「準司法官」と述べている。
現に、現行の検察庁法は、検察官が法務大臣の指揮監督下にあり、法務大臣が検察官の任命、叙級、検察官適格審査会に対する請求、罷免、剰員検察官の処遇その他の人事権を有することを定めている。ただし、検事総長・次席検事・検事長の任免権限は、内閣に帰属する。
【内閣の検察官に対する権限】
・検事総長、次長検事及び各検事長の任免(15条1項)
【法務大臣の検察官に対する権限】
(任命)
・検事長、検事及び副検事の任命(16条1項)
・一級及び二級検察官の叙級(18条及び19条)
(罷免)
・検察官適格審査会に対する請求(23条2項2号)
・検察官適格審査会の議決を相当と認める場合、検事総長、次長検事及び各検事長に対する罷免の勧告または検事長、検事及び副検事の罷免(23条3項)
(その他人事権)
・高等検察庁又は地方検察庁の支部勤務の命令(17条)
・検事長、検事又は副検事が検察庁の廃止その他の事由に因り剰員となった場合、その検事長、検事又は副検事に俸給の半額を給して欠位を待たせる(24条)
(指揮監督権)
・検察官に対する一般の指揮監督(13条2項)
・個々の事件の取調又は処分に関し、検事総長に対する指揮監督(13条2項)
・検察庁の事務章程の制定(32条)
したがって、検察官の人事に関する終局的権限は、内閣及び法務大臣に属しており、定年後の役職延長・勤務延長に関しても、この制度を設けるとすれば、その終局的権限は当然に内閣及び法務大臣に帰属すべき問題である。
3 定年後の役職延長・勤務延長の制度の必要性
他の国家公務員一般については、定年後の役職延長・勤務延長の制度が既に存在する(国家公務員法81条の3)。
そこで問題は、①検察官について、定年後の役職延長・勤務延長の制度が必要あるか、②検察官について定年後の役職延長・勤務延長の制度を設ける場合に、誰がどのように判断する制度設計にすべきか、である。
①の検察官の定年後の役職延長・勤務延長制度の必要性について、まずは、必要性に関する具体的な議論がなされるべきであるが、日弁連の会長声明は、具体的な理由を述べることなく否定している。検察官は捜査・起訴権限を有し、事案の終結まで年単位の期間を要する事案が多く、特に重大事件において長期化する例もしばしば見受けられ、特段の事情がある場合に役職延長や勤務延長制度を設けておくべき必要性自体を否定する論拠は乏しいと思われる。
②の制度設計についても、日弁連の会長声明は何も述べていない。任命・叙級・剰員の待遇等の人事権限が基本的に法務大臣に帰属することを踏まえると、法務大臣に権限を帰属させることが合理的である。また、改正案では法務大臣が準則を作成し、これを踏まえて延長の判断を行うこととなっているが、この制度設計自体も直ちに不合理とは言えない。
4 日弁連の「危惧」は抽象的であり、運用の問題に過ぎないこと
日弁連は、上記①②について具体的な理由を指摘することなく、抽象的一般的に、役職延長・勤務延長制度ができた場合に、内閣や法務大臣の「裁量」によって検察官の独立性侵害ひいては三権分立違反となることを危惧し、制度創設そのものに反対している。
しかし、検察官は法務省の特別機関であり、法務大臣は既に検察官に対する任命・叙級・検察官適格審査会に対する請求・罷免等の人事権・指揮監督権限(内閣は検事総長等の任免権限)を有しており、検察官に対し、内閣や法務大臣の「裁量」を前提とする制度が現に存在して機能している。今回、定年後の1年間・最長3年間の役職延長・勤務延長について、内閣や法務大臣の「裁量」の存在だけを理由に、制度そのものに反対するのは具体的論拠が乏しい。
また、日弁連が指摘する「検察官の独立性侵害」「三権分立違反」は、日弁連が述べているとおり、あくまで「危惧」にすぎず、法改正後の運用や個々の事案における裁量の問題であり、法改正によって発生する具体的な弊害や影響とは区別しなければならない。ましてや、今回の改正案では法務大臣が準則を作成し、準則に基づく延長の判断が行われるものであり、尚更恣意的な裁量行使がされるおそれは低い。
運用についての抽象的な「危惧」は、いかなる法律制定や法改正に対しても言えることであり、法改正そのものに反対するほどの強い論拠ではない。
運用についての抽象的な「危惧」だけを理由に、必要性や制度設計に関する議論を一切することなく、改正自体に反対するのは拙速であり、論理に飛躍がある。
5 今回の会長声明が政治的公平性・中立性を損なうおそれ
日弁連は、全国の弁護士会及び弁護士が強制的に登録している団体であり、特定の法律案に対して意見を述べるのであれば、法律専門家として、法案に対する法律上の問題点を具体的かつ客観的に検討・指摘すべきであって、いやしくも政治的公平性を損なうことのないように配慮しなければならない。
検察庁法改正案について、運用上の懸念を示すにとどまらず、改正そのものについて明確な反対意見を述べるならば、相応の法律上の根拠を示すべきであるが、今回の会長声明においてそれがなされているとは言えない。
今回のような拙速かつ論拠に乏しい会長声明の濫発は、日弁連の会長声明が、政治的・恣意的になされているのではないかとの疑念を抱きかねず、日弁連自体の政治的公平性・中立性を損なうおそれが高い。
以上より、頭書の日弁連会長声明に反対する。
以上
令和2年5月12日
弁護士 安達悠司
R020511日弁連会長声明に対する私見_R020512